はじめに
ヒトゲノムの全塩基配列を解読することを目的とした国際共同研究「ヒトゲノムプロジェクト」の完了後、2000年代半ばに次世代シーケンサー(NGS)が登場しました。この技術はそれまでの生命科学研究のあり方を大きく変え、オミクス解析を劇的に加速させました。2017年頃から急速に普及したシングルセル解析も、このNGSという強固な基盤の上に成り立った革新技術の1つです 。
それまでの1細胞レベルの解析といえば、研究者が顕微鏡下で染色した細胞を1つひとつ観察したり、FACSを用いて限られた細胞表面マーカーに基づいて細胞を分類・分取したりする手法が主流でした。そのため、一度に解析できる細胞数や取得できる情報には限界があり、細胞の多様性を網羅的に捉えることは困難でした。しかし、このNGSとシングルセル技術の融合によって、膨大な数の細胞それぞれの遺伝子発現情報を一度に網羅的に取得できるようになりました 。これにより、従来のバルク解析では見落とされていた疾患特異的な細胞集団や、新たな治療標的が次々と同定されていきました 。
そして現在、時代は個々の細胞の遺伝子情報だけでなく、それらが組織内でどのように位置しているかという位置関係までを明らかにする空間発現解析へと進んでいます 。
では、この空間発現解析によってどのようなことが分かり、医療や創薬はどのような進化を遂げようとしているのでしょうか 。本記事では、単なる『細胞の地図』を超えて、実際の治療現場を変えつつある最前線の研究からその可能性を解説します。
がん治療のネクストステージ:なぜ抗がん剤が効かないのか?
現在、がん治療および創薬開発では、新規治療薬の開発に加え、既存の治療薬が「なぜ効く患者と効かない患者がいるのか」を明らかにし、その治療効果を最大限に引き出すための研究が活発に進められています。
一方で、シングルセル解析では薬剤耐性に関わる細胞集団の同定が可能である反面、細胞を組織から解離して解析するため、それらの細胞が組織内でどのような細胞と相互作用しているかまでを解明することは困難でした。
この限界を突破し、空間発現解析によって、がん細胞とその周囲の細胞とのクロストークから薬剤抵抗性の本質に迫った研究が数多く報告されています。本記事ではその一例として、2024年に新潟大学や国立がん研究センターなどの研究グループが発表した、卵巣明細胞がん(OCCC)に関する研究を紹介します。
対象論文:
Targeting PDGF signaling of cancer-associated fibroblasts blocks feedback activation of HIF-1α and tumor progression of clear cell ovarian cancer: Cell Reports Medicine, 2024, 5(5), 101532.doi.org/10.1016/j.xcrm.2024.101532
1-1. 空間発現解析が暴いた「抗がん剤抵抗性」のネットワーク
卵巣がんの中でも卵巣明細胞がん(OCCC)は、標準治療である抗がん剤が効きにくい難治性の腫瘍として知られています 。
研究チームはまず、抗がん剤が効いた患者(感受性)と効かなかった患者(抵抗性)の腫瘍組織を用いて、シングルセル解析(snRNA-seq)を行いました 。その結果、抗がん剤抵抗性の組織において、有意に多く存在する特定のがん細胞集団が同定されました 。この細胞集団を詳細に解析すると、低酸素応答経路に関与する遺伝子群が特徴的に発現しており、上流では、低酸素ストレスに応答することで活性化し、抗がん剤抵抗性に関与することが知られているHIF-1αという転写因子が活性化していることが示されました 。
次に研究チームは、10x Genomics社の空間発現解析ツールVisiumを用い、このHIF-1α陽性のがん細胞が腫瘍組織のどこに存在しているのかを調べました 。すると、他のがん細胞とは異なり、HIF-1α陽性のがん細胞はがん関連線維芽細胞(CAF)のすぐ近くに集中的に局在していることがわかりました。
では、このがん細胞の近傍に位置するCAFはどのような性質を持っているのでしょうか 。シングルセル解析のデータを基に検証したところ、これらはCAFの中でもmyCAF(myofibroblastic CAF)と呼ばれる、がんの進展に関わるプロファイルを持つ細胞であることが分かりました 。免疫組織染色の結果でも、HIF-1α陽性細胞と、myCAFのマーカーであるFAPを発現する細胞が隣り合って存在していることが認められました。
さらに統計学的な多変量解析により、このHIF-1α陽性のがん細胞とFAP陽性CAFの双方が高頻度に存在することは、がんの進行ステージとは独立して、患者の生存期間短縮と有意に関連することが示されました。
興味深いことに、がん細胞がHIF-1αを発現していても、FAP陽性CAFが少ない症例では予後の悪化は認められませんでした。この結果は、がんの悪性度ががん細胞単独の性質によって決定されるのではなく、がん細胞とCAFの相互作用が関与していることを示唆しています。
一連のデータより、これら両細胞が隣接して存在し、互いにシグナルを介して相互作用することによって、抗がん剤抵抗性に関与している可能性が示されました。
1-2. クロストークの実態と既存薬による克服
では、この細胞間のクロストークを仲介している具体的な因子は何なのでしょうか 。研究チームがシングルセル解析と空間発現解析のデータを統合し、リガンド・受容体相互作用解析を行ったところ、PDGF(リガンド)とPDGFR(受容体)の相互作用が候補として同定されました。免疫組織染色でも、がん細胞のすぐ近くにいるCAFにおいて、実際にPDGFRが活性化していることが示されました。
これにより、がん細胞と周囲のCAFがPDGFのシグナルを介して相互作用している可能性が示されました。実際に、スフェロイド共培養系を用いた実験において、CAFと共培養することによってがん細胞におけるHIF-1α及びPDGFの発現が誘導されること、また抗がん剤抵抗性が増加することが確認されました。さらに、これらの効果は、CAF側のPDGFRをノックアウトすることでキャンセルされることも明らかとなりました。
これらの知見から、抗がん剤抵抗性腫瘍において、「がん細胞が分泌したPDGFが近傍のCAFを刺激し、刺激を受けたCAFから分泌される因子が、再びがん細胞のHIF-1αとPDGFの発現を上昇させる」という正のフィードバックループ(positive feedback loop)が形成されていることが示唆されました。すなわち、がん細胞とCAFの間のPDGFシグナルを介したpositive feedback loopが、抗がん剤抵抗性を支える腫瘍微小環境(ニッチ)の形成に本質的な役割を果たしていると考えられます。
実際にマウスXenograftモデルを用いた実験において、PDGFシグナルを阻害するチロシンキナーゼ阻害剤と抗がん剤を併用して投与したところ、抗がん剤単独の治療よりも劇的に腫瘍の増殖が抑制されることが示されました 。
1-3. 空間発現解析だからこそ導き出せた治療法
本研究の非常に興味深い点は、がん細胞で認められたHIF-1αの発現誘導が、環境の低酸素ストレスによるものではないという点です 。
空間発現解析により、がん細胞のHIF-1α活性化には、周囲のCAFにおけるPDGFRシグナルが関与している可能性が示されました。この知見を踏まえ、研究チームはPDGFシグナルを阻害する既存のチロシンキナーゼ阻害剤に着目し、その有効性を検証した結果、抗がん剤との併用によって腫瘍増殖が有意に抑制されることを示しました。
1-4. まとめ:空間発現解析がもたらす新しい精密医療
本研究では、まずシングルセル解析によって、抗がん剤抵抗性と関連するHIF-1α活性化がん細胞集団が同定されました。さらに空間発現解析を組み合わせることで、これらの細胞がCAFと近接して存在することや、PDGFシグナルを介した細胞間相互作用が抗がん剤抵抗性に関与している可能性が示されました。この知見をもとにPDGFシグナル阻害剤を用いた検証が行われ、抗がん剤との併用による治療効果が示されました。
このように空間発現解析を組み合わせることで、シングルセル解析だけでは把握が難しかった、がん細胞とCAFとの位置関係や細胞間相互作用が明らかとなりました。さらに、これらの知見をもとに、がん細胞の周囲に位置するCAFを標的とした治療戦略が検証されています。
細胞の「個性」を暴くシングルセル解析から、細胞の「社会」を読み解く空間発現解析へ 。この技術の進化は、いま手元にある既存薬の組み合わせを最適化し、難治性がんに苦しむ患者さんへ新しい選択肢を届けるための、強力な推進力となっています 。
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当社は、オミクス解析技術を基盤とする研究開発企業です。ゲノム・エピゲノム解析を強みに研究支援事業を展開するとともに、生物学的年齢の可視化などを通じてロンジェビティ領域の事業開発を推進しています。企業・大学・自治体との共創により研究成果の社会実装を進め、食品・美容・AI・まちづくりなど多様な分野で新たな価値創出に取り組みながら、抗老化市場の形成と発展を目指しています。
